シリーズ 熊本偉人伝 Vol.30  ( 旅ムック101号掲載 )
はしもと かんごろう
橋本 勘五郎

数々の名橋を築いた石工一門
橋本勘五郎と先端技術集団・種山石工

1822年(文政5年)生誕〜1897年(明治30年)8月15日没(享年75才)

勘五郎のルーツは種山石工の祖をはじめ、名工一門にあり

計算し尽された石積みで虹のような美しいアーチを描く石橋。全国に2千基以上ある石造アーチ橋の9割強は九州に現存し、熊本も数多く残る眼鏡橋の宝庫である。それは、江戸末期から明治中期にかけて活躍した種山石工と呼ばれる眼鏡橋の先端技術集団の存在が大きい。

そのうちの一人である橋本勘五郎は、国内最大級の単一アーチ橋である霊台橋(れいだいきょう)や国の重要文化財となっている通潤橋(つうじゅんきょう)をはじめ、東京の万世橋(まんせいばし)など、数多くの架橋を手掛けた人物として後世に名を残す肥後の名石工である。

勘五郎は文政5年(1822)、八代郡北種山村西原(現:八代市東陽町)に種山石工の祖といわれる藤原林七の長男・嘉八の三男として生まれた。元の名を種山丈八(じょうはち)という。元々長崎奉行所の武士だった祖父の林七は、当時禁じられていた外国人との接触を試み、石造眼鏡橋のアーチ技術を習得しようと円周率を聞き出す。しかし、国禁を犯した罪で身の危険を感じた林七は長崎から北種山村に移住。石造アーチ橋の謎は説けぬままではあったが農業を営みながら試行錯誤を繰り返し、苦心の末に独自のアーチ理論を編み出して橋を造り始める。これが種山石工のはじまりである。

そんな祖父と父の下で丈八は長兄・宇助(うすけ)(夘助・卯助)や次兄・宇市(ういち)(宇一・夘市)らと一緒に腕を磨き、13歳の頃には八代南部の橋架けに携わり、20歳の頃にはアーチの計算法や石橋を組む段取りなど石工としての技を習得していくのである。

石工3兄弟で次々と架橋、集大成は現存する名橋「通潤橋」

弘化4年(1847)、宇助を棟梁(とうりょう)として霊台橋を完成させ、兄弟の名は広く知られるようになる。その後は宇市が采配(さいはい)を振るい御船川(みふねがわ)眼鏡橋(※昭和63年5月の大雨により流失)や立門橋(たてかどばし)(菊池市(きくちし))などを竣工(しゅんこう)した。

嘉永5年(1852)には、矢部地方の総庄屋布田保之助(ふたやすのすけ)を事業主として土木工事の集大成となる通潤橋の架橋に着工。兄弟の中で最も技術的に優れていた丈八は、設計施工の一切を任された。 約20mの高さに灌漑(かんがい)用水を供給する橋は全ての面で無理難題の橋であり、彼らは一族の名誉と命をかけるのである。苦心の末、サイホンの原理を利用したこの設計は、武者返し石垣や鎖石を使った独自の工法で1年8ヶ月後に橋の中に3本の通水管を通し見事完成。丈八33歳の時だった。

この名橋「通潤橋」の成功により当時の細川藩主からその功績を称(たた)えられた丈八は名字帯刀(みょうじたいとう)を許され、以降「橋本勘五郎」と称す。また、記念の品として九曜紋の入った陣笠と草履を賜り、その感激を忘れぬようにと神棚に供えたといわれている。

中央への進出、帰熊後の活躍。親から子へ受け継がれる技術

こうして勘五郎の技術は世間に広く知れ渡るようになり、明治6年には政府に招かれて大蔵省土木寮として雇われ東京へ行く事となる。東京での2年の間に、万世橋や浅草橋などを手がけている(いずれの橋も今は現存せず)。当時の彼の待遇は厚く、地方で一番月給が高いとされていた小学校校長の何倍もの給与が支払われていたという。

東京で次々と架橋に勤(いそ)しんだ勘五郎に当時のほほえましい話が残っている。正月に宮中の御歌会に招かれた勘五郎。普段から酒もタバコも嗜(たしな)まず温厚篤実な性格で当然歌にも精通していなかったためどうしたものかと弱り果てた。 窮地(きゅうち)を脱する為に代作を頼み「一生の中で一番困った」と漏らしていたという可愛らしいエピソードがある。

そんな一面もある勘五郎も東京での仕事を終え帰熊。当然のことながら九州一円から架橋の依頼が舞い込んだ。熊本市内を流れる坪井川に架かる明八橋(めいはちばし)や明十橋(めいじゅうばし)をはじめ、菊池市の永山橋、山鹿市(やまがし)の高井川橋などを次々と完成させていく。勘五郎は次男・弥熊(やぐま)に六代目種山石工の棟梁を継がせ、優秀な石工へと育てていき、その弥熊とともに架橋したのが、 御船町にある下鶴橋(しもつるばし)で明治15年から4年の歳月をかけて完成させている。

石橋文化が陰をひそめた今、色濃く残る名工一門の証

勘五郎親子が大仕事をこなしていた一方、世間では新たにコンクリート製の橋が登場するようになっていた。石橋に比べ建設コストも時間も抑えられ場所を選ばなくて良いという利点も手伝って徐々にコンクリート橋の需要が増え始めていく。時代の流れはどうしようもなく、勘五郎たち種山石工の活躍の場は次第に失われていった。

おごることなく誰もが驚く名橋を架け名声を得ても野心がなく金儲けにも走らなかった勘五郎だが、明治30年75歳でこの世を去った。魂を吹き込み、時に命を掛けて造った大小さまざまな石橋の数々は風雪や豪雨にも耐え、今なお九州を中心に点在し、優美さと強健さを備えたまま「物言わぬ意思の象徴」として人々の生活の一部に溶け込んでいる。残念ながら現代においていなくなってしまった種山石工の匠たちだが、残された石橋と技術は今なお受け継がれている。

関連写真

参考文献/東陽村人物史(東陽村教育委員会編集・発行)、史実資料に基づく種山石工列伝(東陽村発行)、熊本の眼鏡橋345(上塚尚孝著)、ふるさと先駆者伝 橋本勘五郎(九州電気保安協会編)

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